昭和42年01月14日 朝の御理解



 愈々、自分が助かり、そして又、人も助かり、自他共に助かっていけれる道をお互い、選ばして頂かなければならん、又、そこに精進の焦点を置かなければならない。せっかく皆さんが、こうやって朝参りをしておるという事は、信心に一生懸命精進をしておる事でございます。ですから、その精進が、ただあの自分だけが助かる事の為であったり、ただ一つの願い事だけの為の信心であったら、それは、たいした信心じゃない。
 自分も助かり、人も助かり、いわゆる、みんなが立ち行くようなおかげを頂くために、私は、おかげを頂かなければならんと思う。それを神様が喜んで下さり、それを、金光大神様が喜んで下さるのでございますから、自分だけが助かるという事だけではでけん。昨日、久留米から毎日、日参をして来る方がございます。いつも御祈念の後ぐらいに参ってくるんです。
 その方が昨日、お参りをして来てから、お届けなんです。先生、あの昨日頃から、家内が機嫌が悪うございます、とこう云う。それでもう本当に、何の為こんやつは、そげん機嫌悪うしとるじゃろうかと思うて、昔ならば、まあその、やりやり夫婦喧嘩をしたところでございますけれども、此の頃、信心させて頂く様になりまして、段々、思い方が変わって参りました。
 それでもう女中、女中ば雇うとると思やよかけんと思うてから、その思いましたら、心がスーッとしましてから、その腹も立ちまっせん、と云うてその、お届けしておるんです。成る程、その女中を雇うとると思うとる、自分の家内と思うから、腹の立つ、だから、女中雇うと思や、自分は腹は立たん、けども、それではです、自分だけは助かっておっても、奥さんは助からないです。
 成る程、そりゃなかなか、自分の思い方が、スッとするというだけは、おかげ頂いとるけれども、それじゃ奥さんも助かっていかなならんとに、助かっていけんから。もう少し思い方を深めにゃいけんですな。そこでその、そんならば、何のために、その家内が、あなたに対して、サービスが悪いかと云う事を聞かんかだけではない、機嫌悪うしておるか、2人の子供がおりながら、子供もよう見らん。
 自分が子供も見て、世話をしたり、又、炊事場にまで立たなゃならん。そるけんち言うちから、家内にその機嫌とろう事はない。腹は立つけれども、まあ自分の家内と思うたら腹が立つから、女中と思うと、こう云う訳なんです。それでは、その自他共に自分も助かりゃ、奥さんも助かるという事にならんから。本当に、結局、私は信心とは、自分というものを本気に一つ見て見なきゃいけん
 。信心を深めるという事は、そう云う事なんだ、自分を見てみるという事。自分に釣合うた、自分に釣合うた家内なんだと。家内がああして、仏頂面しとるけれどもです、自分の心の中にです、やはり、それと同じ様なものがありはせんか。家内から大事にされないというならば、大事にされない元が、自分の方にあるのじゃないか。そう云う時に自分と云うものが掘り下げられる。
そして、本当に神様相済みません、私の不行き届きの為に、家内にまで不機嫌な思いをさせますと。本当に、相済まんという気持ちで、神様にお詫びをする様な心にならせて貰うとです。あなたも助かるだけではなくて、そういう心を神様が喜んでくださるから、家内は家内で、ちゃーんと心の上にお繰り合わせを下さって、お父さん、済みませんでしたという様な事にもなってくるんですよと。
 はぁほんにそうですねと云うてまあそのご理解を、この事を繰り返し自分でも言い、私もその事について色々と自分の体験というものを話さして頂きました。まあ一番私と家内の事を話さして頂くので御座います。どんなにこの女子ばっかりはどうして気の付かんおなごじゃろか、どうしたつまらん女子じゃろかと思う前に、自分自身がどうした男じゃろかどうしたつまらん私じゃろかと言う事を、気付かして頂く時にです。
 家内じゃない、自分であるという事が分かるという様にです、自分というものを掘り下げさして頂くとね、その後が自分自身が有り難い。神様相済みませんと、心からお詫びをする心というものは、もう神様が何ともなしに喜んで下さる証拠に、自分自身が有難うなってくる。いわば3間掘ってある井戸よりも5間、5間堀った井戸よりも7間、いわば掘り下げたら、冷たぁい夏ならお水が出るだろう。
 冬なら温かいお湯の様な水が出る様なもの、水に変わりはないけれども。掘り下げるという事は、こんなにも有り難いものだという事をです。私は信心によって分からせて頂く時に、いわゆる自分も助かれば、人も助かるのです。同時に神様も喜んで下さり、金光大神も喜んで下さり、そういう例えば一つの考え方、そういう思い方、これが真実の思い方であるという事を、一つ分からせて頂かなければならんのです。
 さところがその、私共がこうして信心の稽古をさして頂いて。ま夫婦喧嘩ぐらいならまだ良いけれど、おかげを頂いて親子喧嘩はせんですむ様になった。子供が云う事を聞かんのも、子供が悪いとじゃあない。家内が云う事を聞かんのも、家内が悪いとじゃない、家内と私は同じなんだ、天秤にかければ同じだと。家内を責めるだんじゃない事が判ってくると云う様な考え方が、私は愈々、自分の家の中を平和にしていくという事。
 そういう考え方が、村をも平和に導いていく事が出来る。云うなら、世界真の平和にもつながる様な心とは、そう云う様な心だと私は思うんです。そこでです、私共がその、そういう、まあ程度の時には、そういう風に自分というものを掘り下げさせて貰ってです、おかげ頂いて居るですけれども。咄嗟の場合がある。私は恥ずかしい事ながら、今朝がた本当に恥ずかしいお夢を頂いた。
 と云うのは昔ようこの学校ん時も子供の時そげんでしたが、兵隊ではですねこの何か一寸おチョボがあるとビンタを取られますもんね。ベンプはじかれる訳です、それをその2人並んでおいてから、両方からそのビンタのはじき合いをする訳なんです。お前だんビンタばビンタの取り合いをせろと。ほれで初めはこっちは遠慮してから、そろっと相手を叩きますもん、向こう、やっぱ、さあそろっと叩くじゃろうと思う。
 ところがその見ておるその上官なら上官が、そんなこっちゃ許しません。やっぱりあの本気で叩かなければいけません。叩き直させられる。それで叩きますそうしますと、向こうもやっぱり叩かれた、腹立ったまぎ又はじき返すわけなんです、だから後から叩く方がひどか。こちらはどこにかほんに気心を遣って、少しその一生懸命叩いたごとしてから、そげん、別に喧嘩しとる訳じゃないとですからね。
 ところが、人間ちゅうのは、妙なもんで、叩かれると腹が立つです、やっぱり。そいで今度もう相手を叩く時は、ほんなもう、一生懸命叩く訳です。そう云う様な事がございましたがですね。どう云う様な事か知らんですけれども、私と久富先生がですね。ベンプをそのはじき合わなければならん様になっとるとです。で、私は少しその人間心を使うてから、そのはじいたとですもんね。
 ところが久富先生、自分がはじかれたとが、腹ん立つもんだからですね。ほんな私の横ベンプをイヤッち云うほど叩きなさったですたい、夢の中でですよ。そしたら、私がもう、無性に腹が立ったですよね。私と思うて叩いたかて、私が云うて腹かいとるとこです。私が、云うならば、師匠と弟子、とこう思うとるもんですからね。あれが対等の友達だったらです、おそらくね、私は腹が立たなかっただろうと、こう思うのです。
 でなかったら、目上の人から叩かれた者は、私は、腹は立たなかっただろうと思うです。本当にあの時に、どうして、金光様が出らじゃったじゃろうかと思うて、目が覚めて残念でたまらんのです。けれども、私の、性根の中には、まだまだそう云う様なものがあるんだと。いかにも、昨日、私は、その方にです。それこそ和尚のごたる事を、云うて教えておるんです。
 そげな奥さんのね奥さんが悪か、奥さんが腹けぇとるというけれども、奥さんが云う事を聞かせきらんのは、あんたじゃから。というてほんならそう云う様な思い方、考え方が本当である事を、人にも伝えさして頂いとる私がです、ほんなら弟子のいわば久富先生から私が叩かれたらです。私と思うて叩いたか、師匠大坪総一郎と思うて、お前叩いたか、と云うて、私がその烈火の様に怒こっておるという事の中にです。
 どこに師匠面するだけの信心が自分にでけて居るか。こちら叩いたんなら、向こう叩き返すのは当たり前。叩かれながらでも、金光様有難うございますと云った様なものがです。どうして、自分の中に頂けなかっただろうかと思うて、夢が覚めてから。はぁ自分の性根の中には、まだまだこんなものがあるんだな、人を軽るう見ておる。自分が教えておる、自分の弟子だと、こう思っとるところにです。
 私の思い上がりがあるんだなあと云う事を、私は気づかして頂いた。思い上がりと、カサケのないものがないと云われるくらいに、人間の心の中にはそう云う一つの思い上がりがあるのです。その思い上がりがですね、俺を何と思うとるか、親父を親父とも思わんで、と云った様な事になるのです。これが対等の場合は、叩かれてもです、さほどに腹が立たんに致しましても。
 そこんところに、私共が日頃です、私共の心の中に、信心の喜びというものを、どれほど称えておかなければ、ならんかという事を、愈々切実に感じます。自分の心の中に、信心の喜び、有り難いなあと云う、その心があるならばです、それこそ叩かれても、それこそ、手が痛かったろうと云う様な、気持ちが起こってくるはずなんです。同時に叩かなければならない、自分というものを本気で見極め、愈々自分というものを、掘り下げて見るでしょうけれど。
 それが出来ずにです、それが私の場合は、久富先生であったためにです、私が、その私と思うて叩いたかという、その言葉がです、自分ながら私というものをどのくらいに自分を評価しておるか、自分というものを、そげん良かつのごと思うとるか。いやいや日頃は思うていない、と思うてあるけれども。いやもう自分の様なつまらん者はない。ようもようも自分の位の者を。
 神様はここまでお引立て下さって、この様なおかげ下さると思うて、云うならば歓喜の涙にくれる様な事もあるけれども、そのそこにはまだまだ、そう云う自分という者を、思いあがった心というものがあるんだ、という事を、今朝の夢の中から感じさせて頂いたのでございます。皆さんどうぞ信心とはね、ただ自分だけが助かるのじゃない、人も助からなければならない。
 為には叩かれた自分も相すいませんと云う様な気持ちになる時に、叩いた人も必ず助かって行く様な道が、そこから開けて来るのです。自分だけが有り難いと思うとりますと、と云う、自分だけ自己満足的な喜びではいけません。お道の信心は本当に私も喜べりゃ人も喜べれる。同時にそれを神様も喜んで下さり、金光大神も喜んで下さると云う様なおかげに、段々進展していかなければ、本当のお道の信心のおかげとは云えない。
 またお道の信心をさせて頂いておる者の信心の姿とは云えない。愈々自分を深めさせてもらう、愈々自分を掘り下げさして頂くところから、尽きぬ有り難い喜びが湧いてくる。その喜び心を持って、私共が何事にもあたらして頂くという事になってくる時に、例えば叩かれても有難うございますと云うならば、相手の事が祈らして頂けれる。例えば夫婦の場合でも、もう家内が下手に出らにゃならんもんと思うとる。
 家内ちゃもう主人の云う事聞かねばならん様に思うて居るから、云う事きかんともう腹が立つのである。俺を、主人を主人とも思わんでという様な事になってきて、私は本当の信心頂いておる者の値打ちをなくしてしまう様な事になるのです。ま云うなら日常茶飯事の中に、もういつもそう云う様な事に直面致しますが、そう云う様な事にです。私共が本気で取組まして頂く、私は生活を、信心生活と云い。
 そう云う問題にでも、それを疎かにしない生き方をやはり、信心の稽古をさせて頂いておると云う事がいえるのじゃないかと。もう本当に自分でそう云う様なお夢を頂いてから、自分ながら恥ずかしい。自分が随分よう出来たごと出来たという事は、自分というものを愈々判るという事だと、私は思うんです。判っておる様に、思うて居るけれども、判かっておらん証拠に、私と思うて、叩いたかと云った様な言葉になって出て来ておるのでございます。
   どうぞ。